日独交流150年
日独交流150年
―私のア・ラ・カルトー
(ドイツ文学者・エッセイスト)
日独交流は万延元年(1860年)、当時プロイセンから特命大使として派遣されたフリードリヒ・ツー・オイレンブルグ伯爵が、江戸で締結した修好通商条約(友好・通商・航海条約)から始まった。

江戸城内でケンプファーが将軍の前で恋歌を1曲歌ったときの光景を描いたもの。中央に立っているのがケンプファーである(長崎歴史文化博物館所蔵)。

長崎出島之図(川原慶賀筆)シーボルト在日時代頃の出島の光景を描いたもの。シーボルトが拡張整備した植物園・薬草園の規模が窺える(長崎大学附属図書館経済学部分館所蔵)。
日独交流の始まりは公式には、万延元年(1860)12月14日、江戸幕府とプロシャとのあいだに結ばれた修好通商条約と貿易章程の調印だろう。プロシャからは特命大使として、フリードリヒ・アルブレヒト・オイレンブルク公がやってきた。プロシャの名門の出で、後に内務大臣となり、ビスマルクの片腕といわれた人だ。だが、法的にととのわなくては交流が始まらないわけでもない。その以前からオランダ人にまじりこむようにしてドイツ人がやってきた。もっとも早いのは17世紀末に来日したエンゲルベルト・ケンプファーであって、オランダの通商代表に加わり、長崎から江戸を往復した。
その間、燃えるような好奇心で街道筋の人々、また町の様子をながめ克明にメモをとっていたのだろう。帰国してのち『日本誌』を刊行。イタリア人マルコ・ポーロは日本に来なくて『黄金国』を報告したが、ドイツ人ケンプファーの見聞記は、ヨーロッパに伝えられた最初の体験者による日本紹介だった。
もう一人、有名なジーボルトがいる。1823年、長崎のオランダ商会勤務の医師としてやってきた。腕のいいのが評判になって江戸に招かれ、以後「特別外国人」の待遇を受けた。一定の条件つきとはいえ、自由に視察旅行をしてもかまわない。ヴュルツブルク生まれの医学者は6年わたり、熱心に当時の日本を見てまわって、動物、植物、風俗、文化一般、ひろく資料を蒐集した。帰国後にまとめた『日本動物誌』と『日本植物誌』は東洋の島国の秘めている驚くべき豊饒さをひろく世界に知らせた。最初のドキュメントというものだった。
特命大使オイレンブルクと修好条約が結ばれる以前にも、少なからぬドイツ人が来日していた。1860年版の浮世絵師一實斎芳房、あらわす「異国人シリーズ」の一つに「おろしあ人」があって、いかめしい軍帽、軍服姿が描かれている。タイトルだけだとロシア人ともとれるが添えられたことば書きはこんなぐあいだ。
偽をつくを ふあるすといふ
日光を ぞんといふ
女郎を うゝるといふ
欺瞞(だます)ことを べとりげんといふ
(浮世絵版画「魯西亜人」 一實斎芳房作)
発音がやや不正確だが、長い(ラング)、いつわり(ファルシュ)、日光(ゾネ)、娼婦(フーレ)、だます(ベトリューゲン)いずれもレッキとしたドイツ語である。絵師がどうして仕入れたのかは分からないが、プロシャ使節団が来る前から、この種の単語をしきりに口にするドイツ人が江戸の町にいたわけだ。
こっそりやってきた一人にトロヤの発掘で知られるハインリヒ・シュリーマンがいる。
1865年6月のこと。修好条約が結ばれても、たてまえは鎖国がつづいていて、勝手に上陸は出来ない。しかし、明治維新の前年であって、ほぼフリーパスだったようだ。「6月の朝、わたしは上陸のために早く起床した」筆まめだったシュリーマンが『日本中国旅行記』に書いている。東洋汽船の「北京丸で上海から横浜着。ひと月ちかく滞在し、持ち前の行動力と好奇心でさまざまなものを見てまわり、風雲急を告げるサムライニッポンの最後の姿をくまなく書きとめた。
おりしも将軍家茂が京へ上がるという大イベントがあった。老中以下、幕臣、諸藩兵こぞって随行。前代未聞の大行列であって、東海道一円にお触れが出た。すべての店の戸口を閉めよ。なんぴとも家から出てはならない。外国人の参列はもとより禁止。だが江戸のつねでひそかに例外がもうけてあった。シュリーマンは一時間半ほど歩いて「外国人に用意された木立への繁み」にもぐりこみ、将軍入京の大パレードをつぶさに見た。
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